自己紹介

自分の写真
霧島市, 鹿児島県, Japan
造園施工管理技士、土木施工管理技士、公害防止管理者(大気、水質各1種、 騒音、振動)

山岳関連のホームページも是非ご訪問ください!(下記をクリック)

2018年11月25日日曜日

サンパウロの90歳の佐々木寛一(Kann-ichi Sasaki)さん

 大変嬉しいお便りを受取りました。1972年にブラジルのコジッパ製鉄所の溶鉱炉操業部門の技術援助でお世話様になりました、通訳の佐々木寛一様から、突然お手紙を受取りました。90歳になられたとのことです。お手紙には、ブラジルの政情に関するご心配や、日本のそれに関することも切々と書かれていました。今でも仲間と河の釣りに出かけられるとのことです。




2018年11月23日金曜日

ジャカランダの鉢上げ

ジャカランダ:IKE・JC171205四季咲き(クリチーバ市、ジャルジンアンビエンタル公園)、花青黒の鉢上げの様子。播種1年で樹高1.2mですが、小型に仕立てるつもりです。樹種はジャカランダ クスピディフォーリア。

整理した根を無駄なく伏せ根

畑に1本残した

 


 

2018年11月20日火曜日

ケラマツツジの嫁入り打合せ記録


差出人: 前田 久紀
送信日: 2018年11月20日
宛先: 消去
件名: ケラマツツジ関連

 
(消去)様
   前田です
 ケラマツツジに関しましてご説明不足と思いますので育成記録をお届け致します。「第2圃場」が登場しますが、2年前に撤収しました。
 ケラマツツジ(ツツジ全般)はひこばえの成長が激しく、庭木スタイルに仕上げるのは至難の技でした。ここまでは自慢の作品です。
 毎年、秋にひこばえを全数切断します。今年、初めてそれをサボリました。年のせいで頑張れないのです。下草払いをやっと2回やりました。
 ヘタな業者様にお渡しして雲散霧消するより、しっかり管理して頂ける嫁入り先を探しておりました。
 
追記:
 このお相手様への嫁入り総本数は、イペー200本、ケラマツツジ200本前後で移植時期は来春の予定です。イペー、ケラマツツジとも残りがありますので嫁入り先を検討中です。

ひこばえ切りに活躍した鋸と鋏(それぞれ2代目、3代目)

2018年11月11日日曜日

日伯修好100周年記念切手

 日伯修好100周年記念切手を主体に、約1年かかってブラジルの歴史に関連する切手を集めました。1895年(明治28年)11月5日に「日伯修好通商条約」が締結されました。1995年(平成7年)が日伯修好100周年で、これを祝う記念式典や記念切手の発行が行われました。
 この度集めた切手の 購入先はルーマニア、アメリカ、オランダ、イタリー、ブラジル、日本です。額の写真中央のイペーと桜を配したブラジル発行の切手のデザインが特段によく、しかもきれいで最も入手困難でした。これを多数欲しかったために悪戦苦闘、購入先は数ヵ国になりました。100周年記念切手は日伯共同発行と銘打っており、デザインの一部が共通しています。
 右上はパウ・ブラジルで、これもきれいで入手に苦労しました。左上の4枚と右下の2枚は、パウ・ブラジルなどを伐採して輸出するなど、ブラジルの500年前を表現する貴重な画像だと思います。
  左下の4枚は日本発行ですが、デザインがダサく、好きではありません。上の2枚がイペーと桜、下の2枚がサッカーですが、切手でもブラジルに完敗です。
 額の撮影にも一苦労しました。鏡と同じで撮影者を含めて正面がすべて写りますので、工夫が必要です。

 
  友人を持つブラジル以外は大変な苦労をして入手した相手先です。イタリーは二重引き落としされました。代金を支払って商品が送ってこなかった場合もありました(MARIA JESUS INGLÊSという偽名?)。この程度は普通のことでしょう。
 
ブラジルの古い記録です。


 
 
  100周年記念行事を伝える記念碑の現在の様子です。サンパウロ新聞より転載。 

日系社会の遺産調査⑯ カルモ公園と日本館庭園に「日伯修好100周年記念碑」

日系社会の遺産調査⑯ カルモ公園と日本館庭園に 「日伯修好100周年記念碑」
日伯修好百周年記念植樹之碑(カルモ公園、2018年6月1日撮影)
  1995年の日伯修好100周年にご来伯した紀宮清子さま(当時)の植樹を記念した「日伯修好百周年記念植樹之碑」が、サンパウロ(聖)市イタケーラ区のカルモ公園(Av. Afonso de Sampaio e Sousa, 951)内に安置されている。
 同年11月15日に除幕式が執り行われた。除幕式では、約1000人が見守る中、紀宮さまは紅白の幕で包まれた仮設会場に入った。
 ソロ・ボルジェス聖市副市長と日伯修好100周年記念事業サンパウロ日系協力委員会の橘富士雄委員長があいさつし、紀宮さまとボルジェス副市長がイペーの木を植え、橘委員長が水を注いだ。紀宮さまが植樹したイペーの他にも、カルモ植樹委員会(当時)によって計600本のイペーが植樹されている。
 植樹が完了した後、紀宮さまと副市長の手で同碑が除幕された。
 現在は石造りの土台が破損しており、管理が行き届いていない状態が見て取れる。
 聖市イビラプエラ公園内の日本館の庭園にも、同様の「日伯修好百周年記念植樹之碑」が建立されており、紀宮さまの来伯・植樹を記念して2カ所に同様の碑が建立された。(つづく)
2018年9月7日付

2018年11月10日土曜日

仙厳園のジャカランダ

 2017年11月7日、久しぶりに仙厳園を訪問した。ジャカランダを記録する。昔、玉利幸次郎先生が寄贈されたようだ。


   伐採された松   ヤクタネゴヨウ松とのことです。みけにゃんママ様のブログから引用。

  ついでに

  
   「伐採された松」に関連する、みけにゃんママ様のブログ:
      https://ameblo.jp/decomike/entry-12407726911.html







-

2018年11月2日金曜日

ミヤマキリシマ・小林の星

   2016年の秋に長崎県のミヤマガーデン様から「小林の星」を購入しました。鹿屋市の「ホテルこばやし」の先代社長の小林張人様が大変苦労された挙句、雲仙市国見町のミヤマガーデン様に育成を託されたものです。当初は挿し木の活着率が大変悪く、大きくなっても枯れやすいという性質があったようです。
 超小葉、小花、八房で、極めて珍しい矮性の樹種で、小品盆栽に最適です。私はこれ以上の矮性を見たことがありません。
 2017年春に挿し木をして3本活着しました。流石に親木は今夏の猛烈な暑さで参っていますが挿し木は極めて快調に生育しており大変楽しみです。平地の気候に30年かかって慣れたのでしょうか。このページ下部にミヤマガーデン様からの情報を付記します。「小林の星」の誕生秘話です。苦節30年、何事にも苦労と時間が必要なのですね。
  尚、2017年4月18日頃にヤフオクで16,000円と13,000円で購入した由布錦2本や夢絞りは枯れました。それぞれ挿し木を沢山していたので助かりました。購入して鉢替えした昨年の夏を無事乗り切っていたことで、安心して油断したための管理不十分でした。それでも久住白は全く元気です。

   小林の星の挿し木(2017年春挿し)



 「小林の星」誕生秘話:ミヤマガーデン様から頂いた 2016年12月9日 のメール

   小林の星 素晴らしいと思って頂けて嬉しいです。八房性ということで頂きました。鹿児島県鹿屋市のホテル小林の先代社長でした。
  もう30年近くになりましょうか。突然荷物が届いてミヤマキリシマの苗が入っていました。何度植えても育たないということでした。近くの懇意にしている山師のお友達から頂いたと言っておられました。2回くらい頂いたと言っておられました。何年か後にご子息様が"竹下元総理のご媒酌で結婚式を挙げました"ということで写真を何枚か送ってくださいました。
   ツツジの本か何かで私を知られたようです。 何とか育ててほしいとのことで受け取ったものの20cm余りになると枯れてくるんです。頂いた親木から少し挿し木をして根付いたと喜んでいると大きくなっていた親木が枯れ始め あ~!挿し木していてよかった、と胸をなでおろし そんなことの繰り返しでした。 もういい加減諦めようと思いながらほんの少し根付いた挿し木をもとに最後の挑戦と5年位前に挿し木をしてやっと今の苗が出来ました50本くらいです。 そして昨年秋この苗から本当に小さな挿し穂を取って普通に挿してみました。70パーセント弱くらいは活着してくれました。 ヤットこの地に根を下ろしてくれたような気がしております。
交配ものではなくて霧島の山取りということでした


                         小林の星


 
 

2018年11月1日木曜日

「せごどんの力石」

   拙宅のすぐ近く(直線距離で200m)に「せごどんの力石」があります。西郷さんが狩りのために当地を訪れた際に、集まってくる近隣の青年と力比べをしたと言われています。78歳の年甲斐もなく、重さ約80Kgと言われている石を持ち上げてみました。私は韓国岳の麓にある白鳥神社の境内に置かれている、日清戦争時に軍艦に積まれていたという約80Kgの砲弾を持ち上げたことがあり、これよりかなり重く感じました。執念深く、石の寸法から重量を計算すると約90Kgはありそうです(下に計算式を示す)。この石の直径が約30cmとの記述がありますが、とんでもない話で約40cmはありそうです(実測値)
 この力石は、霧島市国分川内向日山にあった(現在のご当主町田郁夫氏談)清凉寺の住職、町田次郎兵衛をご先祖にもたれる町田家に伝わっています。清凉寺は明治初頭の廃仏稀釈で消滅したようですが、現在のご当主も仔細をご存じではありません。ご住職の町田次郎兵衛は現在の町田家の地に住み、西郷さんはこの町田家を定宿にしておられたとのことです。
 ご住職は身長188㎝あり、180㎝の西郷さんと大変懇意で、西郷さんの狩の案内も務められたようです。
 昔は遊びごとが少なく、江戸末期から明治にかけて「力石」との格闘が日本の若者の遊びの一つとして流行ったようです。無数の「力石」が国内に残っています。西郷さんは流行の先端を国分川内に持ち込んだことになります。
  
  せごどんの力石を持ち上げた
  動画撮影秘話: 撮影者は家内です。私が石を持ち上げた瞬間にシャッターを切るようにとの指示に従って執拗に私を映し続けていますが、最初からカメラの設定が「動画撮影」になっていたようです。家内がシャッターを切った瞬間、動画撮影が終了しただけで、写真は存在致しません。シャッターを切るタイミングが遅れたので、奇跡的に録画できました。


 せごどんの力石 :寸法を測った方がおられて、42×33×43㎝ とのことである。 
 このデータを元に重量を計算した。
 石の平均直径=(42+33+43)/3=39.3cm 
  V(体積)=4/3πr3 (4/3×パイ×アール三乗)
  より、V=31,768㎤ (≒0.3㎥)
   安山岩の比重=2.7~3.0をかけると、85.8~95.3Kg,
 一口で言って、90Kgはありそうだ。
   古い文献で、20貫との標記があるが極めておおざっぱである。これが25貫なら95Kgである。

せごどんの力石

  
  
    「広報きりしま」より引用:
 
国分川内「西郷どんの力石」

  西郷どんが国分地方に狩りに来たときの宿は、大抵は川内の町田次郎兵衛宅でした。次郎兵衛は清涼寺の住職で、身の丈は六尺二寸(一八八センチ)もある巨漢。西郷どんの狩りの案内人でもあり、話し相手でもありました。 「西郷どんが来ると、近くの青年が大勢集まってきて、狩りの話をしたり鹿児島の話を聞いたりしました。中でも力自慢の青年は相撲を取ったり、石を持ち上げてみたり、力比べをよくしたといいます。  西郷どんは若者たちと一緒になって、よく遊びました。そのとき力比べをした石が、今も町田さん宅の庭先に残っています。重さは約二〇貫目(約七五キロ)で、縦横三〇センチの丸い石です。
     註:前田は、石の平均直径は(42+33+43)/3=39.3cm  で、重量は90Kg前後ありそうだと思っている